後白河天皇

1127(大治2)-1192(建久3)
第77代天皇。
諱は雅仁。
鳥羽天皇の第四子で、母は待賢門院藤原璋子。
崇徳天皇は同母兄。近衛天皇は異母弟。
子女は藤原懿子との間に守仁親王(二条天皇)、平滋子との間に憲仁親王(高倉天皇)など。
非常に今様を好み、梁塵秘抄を撰者であり、練習で喉を潰すほど今様に熱中する様子は梁塵秘抄口伝集第十巻に詳しい。

1127(大治2) 鳥羽天皇の第四皇子として誕生
1145(久安2) 母待賢門院死去。母の喪が明けて新院となっていた兄崇徳院の所に身を寄せるが、遠慮しつつも以前と変わらず日夜今様を歌いまくる
1155(久寿2) 7月後白河天皇として即位(29歳)
1156(保元元) 7月保元の乱
1158(保元3) 8月第一皇子守仁親王(二条天皇)に譲位(32歳)
1159(平治元) 12月平治の乱
1160(永暦元) 10月熊野詣
1165(永万元) 6月二条天皇病気のため六条天皇(二条天皇皇子)に譲位
  7月二条上皇死去。後白河上皇の院政始まる
  10月第三皇子憲仁親王立太子させる
1168(仁安3) 2月二条天皇を廃位。憲仁親王を高倉天皇として即位させる
1169(仁安4) 1月出家の暇請いのために12回目の熊野詣
  この年出家
1172(承安2) 9日福原に行幸し宋人と会う
1177(治承元) 春に東山の鹿谷にて西光・藤原成親・俊寛ら近臣たち平家打倒を目論むが、5月に発覚。
西光は斬殺。藤原成親・俊寛たちは配流させられる(鹿ヶ谷の陰謀)
1179(治承3) 鳥羽離宮に幽閉される
1180(治承4) 5月以仁王の挙兵
  6月福原都遷都に同行させられる
  12月平安京に戻る
1183(寿永2) 7月24日平家都落ちの情報を聞き、比叡山に逃れる 
  8月尊成親王を後鳥羽天皇として即位させる
  11月19日源義仲法住寺を攻撃、幽閉されてしまう
1185(文治元) 4月22日近衛基通の加茂詣を見物する
  11月11日源義経・源行家追討の院旨を下す
1192(建久3) 3月崩御(66歳)

参考
北畠親房「神皇正統記」岩佐正:校注 岩波文庫
新井白石「読史余論」村岡典嗣:校訂 岩波文庫
後白河法皇「梁塵秘抄」佐佐木信綱:校訂 岩波文庫